禅宗寺 訳 (平成12年考)    平成21年9月8日掲載

 今までの般若心経の全ての訳は、観世音菩薩が舎利子(舎利佛)に

教えを説いた事になっておりますが、果たしてその通りでしょうか。

私は、別な角度から、般若心経の私なりの新たな解釈をここにご紹介

させていただこうと思います。まず訳に入る前に、般若心経の意味を

知る場合のポイントがいくつかありますので、 私が考えたポイントを

6つ紹介致します。

 

第1章  6つのポイント

第2章  あらすじ

第3章  6つのポイントの説明

第4章  般若心経 −訳−

 

 

第1章★★★6つのポイント★★★ 

 ポイントⅠ     否定と肯定の関係

  ポイントⅡ   問答と人間の関係

 ポイントⅢ   中国の漢文は、「起・承・転・結」で出来ている。

 ポイントⅣ   中国の漢文 1つの偈中に同じ言葉は入れない。

 ポイントⅤ   般若心経の誕生の話し

 ポイントⅥ   「縁起」と「空」と「無」は同じ事の表現。

          時代と共に移り変わった文字の違い。

 

 

第2章★★★ あらすじ ★★★

  起     私(玄弉三蔵)は「仏の智慧とは何か」を求め、修行をする中で

       ある時「五薀は皆な空」であるという事に気付きました。

 

 承     そこで、知恵第一の舎利弗さんにお越しいただき、

       私達の身の回りの物の全て又、心の働きは 「五薀皆空」

       であると「証明」してもらいます。

 

 転     その事を中道の教えを通して説明しています。

       中道①②の教え③④とは、

       生⇔滅   垢⇔浄   増⇔滅  の二見を離れ全体を知る事。

       両極を離れた目で、六根・六境・六識の十八界を説明し

           〃      、四苦八苦を説明する 又、

           〃      、四諦八正道を説明し

           〃      、十二起縁を説明しています。

 

       「中道の教え」で正しく物事を観る(全体を知る)事によって

       心の迷いを離れ、不安から解放される事が出来る事を

       説明するのです。

 

 結    今、三蔵法師の「五薀皆空」の悟りの「証明」と「説明」を聞いて

      全てのありようを知る事が出来た私達は、力強く、毎日「感謝・報恩の

      暮らし」を心がけましょう。

 

 

第3章★★★6つのポイント説明★★★

★ポイント1 否定と肯定の関係

 否定の形 ① AはBではない。

        ② AはBであることはない。

        ③ AはBであることはありえない。

 

 肯定の形 ① AはBである。

        ② AはBでないことはない。

        ③ AはBでないことはありえない。

 

般若心経の中で、有名な言葉  「色不異空」 「色即是空」 を

みてみますと、

 

【否定】  AはBでないことはない  色不異空  (物質は空に異ならず)

                                                          物質は空でないことはない

              ↓            ↓          ↓

            だから         だから       だから

              ↓            ↓          ↓

【肯定】   A はBである。      色即是空    (物質は即ち是、空である)

             このように、否定を繰り返して肯定し、「空の思想」の道理を証明する。

 

 次に、6つのポイントのⅡから般若心経を見てみますと、

★ポイントⅡ  般若心経の中で「問答している人の関係」をみてみると 

                     ① 覚者と覚者の問答

                       わかった者同士が会話する形。

                     ② 覚者と修行者の問答

                       質問に対する解答。

                     ③ 修行者と修行者の問答

                       覚者の答えをかりてきて、答えとする。 ●今まで全ての般若心経の訳は②の覚者と修行者という関係。

  いわゆる「観世音菩薩」が 「舎利子よ」と呼びかけ教えを説くという型のもので

  ありました。

 ●私は新しい解釈として ①の覚者と覚者の問答であると主張しいたしたいと

  思います。 「玄奘三蔵」と「舎利子」に「確認する」という型のものであると

  思うのです。

 

 「覚者・ 観世音菩薩」と「修行者 舎利子」の関係ではなく

 「覚者 玄奘三蔵(三蔵法師)」と「覚者 舎利弗」の関係なのではないか。

 観自在菩薩とは観世音菩薩の事ではないと思うのです。

 観自在菩薩とは玄奘三蔵の事であると考えられるからです。

 舎利弗も、「舎利子よ」 などと他人から教えを説かれる修行者の

 立場なのでなく 、「舎利弗」に教えを証明する覚者としての

 「舎利子」で登場する様に思えるのです。

●菩薩とは  ① 人間以外の「仏としての存在」と

         ② 道を求める心 道心を起こして行ずる「人間としての存在」の    

            二つがあります。

 この般若心経の場合の自在菩薩とは、人間としての菩薩 玄奘三蔵 本人の

 事であり 、「自由自在な心(知恵)に目覚めた私は観た」と訳す事も出来るの

 ではないかと思うのです。

 

 「観自在菩薩とは、玄奘三蔵の事」であり

 「般若とは知恵の事」

 「仏の知恵とは五薀皆空」 であると、私は観た。

      ↓

 それを証明できるのは

      ↓

 ●お釈迦様の十大弟子の中の、それも更に知恵 第一と称されている舎利弗

 (しゃりほつ) しか居ません。そこで舎利弗に お越しいただいていて、

  証明をしていただく事が必要があったのです。

  これが般若心経の新たなストーリーです。

 弟子は師匠の教えを受け入れるもの。しかし、舎利子は観世音菩薩の

 弟子ではないのです。舎利子はお釈迦様の弟子なので、観世音菩薩

 から教えを受ける設定には無理があります。

 さらに観世音ではなく観自在ですから、観世音菩薩と訳すのは不自然だと

 思うのです。

 

 

      ↓

    ゆえに

 玄奘三蔵と舎利子(舎利弗)

   覚者 と 覚者の問答ということになるのだと思うのです。

 

 次に、6つのポイントのⅢから般若心経を見てみますと

★ポイントⅢ

 中国の漢文は全て、「起・承・転・結」から出来ている。

   起    観自在 〜 五薀皆空 まで

   承    舎利子 〜 亦復如是 まで

   転    舎利子 〜 得阿縟多羅三貘三菩薩 まで

   結    故知般若波羅蜜多 〜 心経 までである。

            ↓

          だから

            ↓

 般若心経はしっかりとした「四部構成」に、なっているのではないかと

 考えられます。

 

 次にこの6つのポイントのⅣから、般若心経を見てみますと、

★ポイントⅣ 中国の漢文は1つの偈の中に同じ言葉は入れない。 

 「舎利子」とこの276文字の般若心経の中に二度も出てまいります。

  二度もださなければならない程、強いメッセージを強調しなければならない

 理由があるのではないかと考えられます。

 書道でも一枚の紙に、同じ文字が出て来た場合、違う書体で表現するように

 1つの漢文の短い文の中で

 1つの文字にさくスペースは、どれほど大切かを考えると「舎利子」を二度使う

 には、この定義を超える四部構成というしっかりした意味があると

 考えられるのです。

 

 『「承」で証明し』  『「転」でそれを説明する』のは、知恵第一の舎利弗だから、

 知恵を証明する事が でき、更にそれを説明する事が出来るのです。

 Q では残りの9人の弟子はなぜ登場しないのか。

 A それは、空という仏の知恵の証明なので、智恵以外の神通力を持つ他の

 9人を登場させる訳にはいかなかったのです。

 

 このことから、般若心経とは、玄奘三蔵が自ら悟った仏の知恵「空」を

 お釈迦様の十大弟子。それも知恵第一 舎利弗に「証明」してもらい、人々に

 分かりやすく 空の道理を「証明し説明」して示すものであると、私は思うのです。

 

 

 

次に6つのポイントのⅤから般若心経を見てみるとお経の誕生が大切になります。

★ポイントⅤ

 時代背景から般若心経をみてみると、チベットから持ち帰った大般若600巻を

  皇帝に献上した時の 話が重要 となるのではないかと思うのです。

 「玄奘三蔵が皇帝に大般若600巻を 献上した時、皇帝は そのすばらしさに驚き

 大般若経を讃え、玄奘三蔵を厚くもてなした。

 しかし、あまりに長いお経なので、

 国民に広く知らせる為に、短くわかりやすいお経に作り変える様に命じた。」

 そして、出来たお経が、般若心経であるとされています。」

 この事をふまえ考えた場合、観世音菩薩が舎利子に教えを説いたという

 ストーリーではなく、 玄奘三蔵自身が600巻の大般若経を熟読して、

 悟った空(仏の知恵)の内容を民衆に説明するお経をつくるという事ですから

 舎利弗に 「証明」し「説明」していただく事でより確かに更に重々しく民衆に

 受け取ってもらえる内容が成立すると考えたのではないでしょうか。

 

 ポイントⅡの覚者と覚者の問答のコーナーでも説明しました様に、

 私は新たにお経の誕生した後景からも、玄奘三蔵の空の悟り(仏の知恵)を

 舎利子に「証明」し「説明」していただいたという説も考えられると思うのです。 

 

 次に6つのポイントⅥから、般若心経を見てみますと

★ポイントⅥ 「縁起」と「空」と「無」は同じ事の表現の違いである。

 お釈迦様は悟った内容を「十二縁起」を使って民衆に心の教えを説いて

 歩いておりました。お釈迦様の死後、お釈迦様の教えを聞いた多くの人が

 集まって文字にまとめたものがお経に発展してまいります。

 そのまとめたものをさらに理論的に進めていく中で、「十二縁起」を「空」と

 いう言葉を作って説明する時代がやって来ました。さらに、「空」を説明する

 為に「無」という言葉を使うようになりました。

 だから「十二縁起」一般に「縁起」と「空」と「無」は同じ意味の言葉です。

 もう一歩進めて、正しく「活動」する時 私は「禅」という言葉と同じ意味では

 ないかと思っております。

 

 

第4章

 ★★★ 般若心経 訳 ★★★

 - 起 -

 観自在菩薩    心が自在な菩薩は観る

        私訳 自由自在な心身で人々を救う菩薩は観じている

 行深般若     般若を深く行じ

 波羅密多時    波羅密多の時

        私訳 彼岸に到達し、仏の知恵をもって深く行じていると

 照見五薀皆空  五薀は皆空と照見する

        私訳 五薀(地水火風空)は皆「空」であり、

            縁起(縁りて起こる)ものであると、

            照し見る事が出来る。

 度一切苦厄    一切の苦・厄を渡す。

         私訳 五薀は皆空であると解ったなら一切の苦しみ(不安)

            や、厄(恐怖)を超える(安心に変える)事が出来ます。 

 

 - 承 -

  舎利子      舎利弗の証明

         私訳 知恵第一の舎利弗さん、証明を宜しくお願い致します。

 色不異空     色は空に不異であり

         私訳 実体(物質)は(地水火風空)五薀(空)と異ならず

  空不異色     空は色に不異であり

         私訳 (地水火風空)五薀(空)は、実体(物質)と異ならず

  色即是空     色は即ち是れ空

         私訳 物質は即ち是れ空であり

  空即是色     空は即ち是れ色

         私訳 空(五薀)は即ち是れ物質(実体)である

 

 受想行識   私訳受も想も行も識も、全てはかくの如く、五薀(縁りて

                        起こるもの)である。

           受についても想についても行についても識についても

           ①の色についての同じ証明が、受・想・行・識においても

           省略されている。それは次の②③④⑤の如くであります。

 

 ②受不異空 空不異受 受即是空 空即是受 

 ③想不異空 空不異想 想即是空 空即是想

 ④行不異行 空不異行 行即是空 空即是行

 ⑤ 識不異識 空不異識 識即是空 空即是識

亦復如是      亦復(またまた)、如是(かくのごと)   

 - 転 -

 舎利子    舎利子の説明

         私訳 舎利子様 証明の説明を宜しくお願い致します。

             (舎利弗は先の証明した内容を細かに説明する。)

 是諸法空相    諸法は是れ空相

         私訳 我々の回りの物質も我々自身も全ての相は「空」(くう)

            (空とは縁りて起こりしもの)=(縁起)であると釈尊の根本

            理念を説く。

 不生不滅     生ぜず滅せず

         私訳それは五薀(縁りて起こる真理)はいつ生じたものでもなく、

            いつ滅するものでもない

           (形の「無き」変化が「有」り続ける)

 不垢不浄     垢れず浄からず

         私訳五薀(縁りて起こる真理)は、垢する事も垢される事も

            浄くする事も手を加えられるものでない

           (形の「無き」変化が「有」り続ける)         

 不増不滅     増さず滅せず

         私訳五薀(縁りて起こる菩薩の真理)は増する事も、増される

            ものでも なく、滅する事も、手を加えるものでも、

            加えられるものでもない。

           (形の「無き」変化が「有」り続ける)

 是故空中     是の故に「空」は「」なり

         私訳このように「空」を「中」で説明する。

           (形の「無き」変化が「有」り続ける) 

            空(五薀)は中(中道)である。「五薀皆空」を 「」という

            仏様の知恵をもって説明いたしましょう。

     私の新解釈中の説明 「中」とは両極の二元(二見)に

             惑わされない事。両極を離れる事。離れる事とは全体

             であるという所まで進む。 

             「中の理論を基本的教義にあてはめて説明していく」

 無色         色も形もなく、

          私訳物質はそこに有りながら、五薀は縁起(空)ゆえに

             変化するもので一定に有るともいえない

 無受         受もなく、受は受でありながら、有無にあらず(惑わされない)

 想         想もなく、想は想でありながら、   〃     (あるがまま )

 行         行もなく、行は行でありながら、   〃     (   〃   )

          識もなく、識は識でありながら、   〃     (   〃   )

        私訳(十二縁起) も中道を通して五薀皆空の知恵で観ると

 無眼        眼も無く、眼は眼でありながら、   〃     (   〃   )

         耳も無く、耳は耳でありながら、   〃     (   〃   )

         舌も無く、舌は舌でありながら、   〃     (   〃   )  

 鼻        鼻も無く、鼻は鼻でありながら、   〃     (   〃   ) 

         身も無く、身は身でありながら、   〃     (   〃   )

 無意        心もなく、心は心でありながら    〃     (   〃   )

         私訳(六根)も中道を通して「五薀皆空」の知恵を観る

 無色        見る働きも無く、見る働きは働きでありながら

            有無にあらず(惑わされない)

         聞く働きも無く、聞く働きは働きでありながら、   

            有無にあらず(惑わされない)

 無        嗅ぐ働きも無く、嗅ぐ働きは働きでありながら、

            有無にあらず(惑わされない)     

         味わう働きも無く、味わう働きは働きでありながら、  

            有無にあらず(惑わされない)  

         燭れる働きも無く、燭れる働きは働きでありながら、

            有無にあらず(惑わされない)   

         心の働きも無く、心の働きは働きでありながら、

            有無にあらず(惑わされない)     

 

 無眼界       見て認識する力も、認識する力でありながら、有無にあらず

 無耳界       聞く事を認識する力も、   〃            〃

 無鼻界       嗅ぐ事を認識する力も、   〃            〃

 無舌界       味わう事を認識する力も、  〃            〃

 無身界       躅る感覚も、          〃            〃

 無意界       意識する力も、         〃            〃

         私訳(六識)も中道を通して「五薀皆空」の知恵を説明する

 乃至無意識界   さらに無意識界

             意識される、六根・六境・六識(十八界) 以外の無意識界

         私訳 (胎蔵界に対する金剛界) も中道を通して「五薀皆空」の

             知恵で説明する。

 

 ここからは、十二縁起についての説明です。

 無無明    私訳 無明も無く、五薀(縁りて起こる)なので

 亦           また  

          私訳無明でさえ、中道を通して五薀皆空と知る時、無明もなく

 無無明盡      無明が盡きる事もない

          私訳(十二縁起) も中道を通して五薀皆空の知恵を説明する

 乃至無老死    まして、生老病死もなく(四苦八苦も)

           五薀(縁りて起こる)ものなので

 無老死盡      生・老・病・死の盡きる事もなく

          私訳生・老・病・死の盡きることもない 

 無苦集滅道     四苦八苦も中道を通して五薀皆空であると佛の智慧を

             説明する。四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦の事。

          私訳四苦とは・生苦・老苦・病苦・死苦、その他に4つの苦しみ

             がある。求不得苦・怨憎会苦・愛別離苦・五薀盛苦

             併せて8つなので、四苦八苦。

             (四諦)も (八正道)も中道を通して、五薀皆空の知恵を

             説明する

 

 無智        知恵もなく

         私訳五薀(縁りて起こる)ものなので、菩薩の知恵さえも有無

            を離れ、乃至菩薩の知恵の盡きる事もない

 亦         また

 無得        得ることもなく

            五薀(縁りて起こる)ものなので、仏の悟りでさえ得る事もなく

         私訳悟りの盡ることもない

 以無所得     無所得を以てし

         私訳悟り 仏の智恵とは智恵の有無さらに、得るとか得ないとか

            のものではないからである。

           (中道の教えは二極・二元・二見を離れ、惑わされない事である)

 故         故に

 菩提薩捶     仏様の智恵とは  

          私訳ボーディーサッター智恵とは、イコール「五薀皆空」の

             道理の働きです。    

 依般若 波羅密多 般若波羅密多に依る。

          私訳 「全体を見る事の出来る心」に至るのです。

           故に

 心          心は

          私訳全てが「五薀」が(縁りて起きる)「皆空」と気づいた

             私の心は

 無罫疑・無罫疑   疑う心も無く   

          私訳もう疑う心無き故にまどわされる心さえ無いのです。

 故          故に    

 無有恐怖      恐怖の有・無も

          私訳無と有という実体のありようを仏の知恵(中道)をもって

            「五薀皆空」と知ったなら、心の恐怖(迷い)も「五薀皆空」で

             あると知る

 遠離一切顛倒夢想 一切の顛倒した夢の想いを遠く離すといい

          私訳迷いの原因に気付いて、一切の錯覚・勘違い・無智

             それらを離れる事

 究境         究極の 

          私訳これこそ

 涅槃三世諸仏   三世諸仏の涅槃

          私訳過去・現在・未来の仏様達の真実の悟り五薀皆空であり、

             彼岸 仏の智恵を観る(観じる)事。

 依般若波羅密多故 般若波羅密多に依が故に

          私訳五薀を理解する自由自在な菩薩の観ずる般若の知恵の

             完成(波羅密多=ハーラーミッター)

 得阿縟多羅三貘三菩提 阿縟多羅三菩提を得たという事とは

          私訳「五薀皆空」を理解した菩薩の真理を得たとはどういう事で

             あるかというと

 

 - 結 - 

 故知般若波羅密多故に般若波羅密多を知ったなら

          私訳さぁこの五薀皆空という道理を知った私達は、

             有も無も・有が無くなる事も、無がなくなる事も、

             有が無くなる事も無く、無が無くなる事も無い。

 無有・無無を離れた偈を唱えよう

 是大神呪      是の偈は大いなる神達の言葉

 是大明呪      是の偈は大いなる明王の言葉

 是無上呪      是の偈はこの上もない言葉

 是無等等呪     是の偈と等しいものもなく、同じほど優れものもない言葉

 能除一切・苦    能く一切の苦を除く      

          私訳私達は心の苦しみを離れる

 眞貫不虚      眞貫は虚にあらず

          私訳しかし 心・、眞実の心のあり様、眞実の心の持ち方を

             知った今、心の「不安」を離れ、「苦では無かった」

             安心である事が出来る。

             「不安」でもない

             それは「虚」ではなかった

 故説         故に説 く

          私訳道教 儒教で説く。「虚=無」ではない仏様 五薀皆空

             である仏の智恵の言葉を説こう

 即説呪日

 「ギャーティーギャーティーハーラーギャーティーハラソーギャーティー

  ボージーソワカ」

 般若心経      般若の心のお経

          私訳(仏の知恵のお経)

             「五薀皆空」であると知る事は、人間の心の中の仏様

              の働きであり、智恵と呼ぶ。

              「五薀皆空」の中で生きる人間も「五薀皆空」であって

              錯覚(転倒)の心を離れて気づいてみれば、全ては

              「五薀皆空」であると知る。

 

              ・般若→(五薀は皆な空であるという仏の知恵)

              ・心 →(私の二見に惑わされない「中の心」「全体と」)

              ・経 →(同時であり、一つである)

              「さらに禅宗の訳は」この心のありようをしっかり理解し、

               日常生活、怠る事なく 暮らし、人生を行する事を「禅」と

               いう。

 

              仏様の素晴らしい知恵に気づかせていただい

              た事に感謝し、その恩に報いる生き方。                                                         

              活動禅を私は提唱いたします。 

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